人間の価値=役立つことではない
この言葉は、前回のブログ「AI(汎用人工知能)が2030年頃登場でその後あらゆる雇用が失われる」で紹介した「人工知能と経済の未来」井上智洋著の本の「あとがき」からの言葉です。
著者の井上さんは、20世紀前半のフランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユが提示した考えの「有用性(役に立つこと)」についての考えを「あとがき」としていました。
実は僕自身、この「あとがき」の内容が一番感銘を受けましたし、井上さん自身も人工知能(AI)の未来よりも、われわれ人間の価値について一番伝えたかったのではないかと思っています。
今回のブログは仕事には直接関係ないかもしれませんが、どうしても価値をつくり、仕事をしていくうえで、「人間の価値=役立つこと」ではないと、自制する意味を込めて、一部内容を紹介させてもらいます。
AIの登場で価値の転換が必要
資本主義に覆われたこの世界を生きる人々は、「役に立つこと」ばかりを重要視し過ぎる傾向にあります。
そもそも、自分が必要であるか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値の転換の産物です。
より大きな投資はより大きな利益を生むことから、資本主義は未来のために現在を犠牲にするような心をもたらし、
あらゆる物事を未来の利益のための役立つ投資と見なす考えをはびこらせました。
その観点からすれば、小学校に上がってから退職するまでの人生は、投資期間とその回収期間として位置付けられます。
受験勉強の塾通いは、多くの場合まさにこの観点からなされています。
子供の時間は未来の富のためにささげられているのです。
と。そして、今後AIやロボットの発達は、真に価値あるものを明らかにしてくれます。
役立つことが人間の価値のすべてであるならば、ほとんどの人間はいずれ存在価値を失います。
したがって、役に立つか立たないかとにかかわらず人間には価値があるとみなすような価値の転換が必要です。
人間の価値は究極的なところ役立つことはありません。
人の役に立っているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるか、などといったことは最終的にはどうでも良いことなのです。
と。また、著者はこのようにも言っています。
私たち近代人は、人間に対してですら「役立つ」の観点でしかながめられなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどという偏狭な考えにとりつかれているように思われます。
これは、僕自身も反省するところがあると思っています。
ワインを飲むのも、運動するのも=健康にいいからとか、雑誌アンアンのセックスで綺麗にも=綺麗になるからするのかなども「役立つ」観点からの考えにおおわれている。
と紹介していました。
今回のまとめ
最後に、ケインズが未来について言ったことも紹介していました。
われわれはもう一度手段より目的を高く評価し、効用よりも善を選ぶことになる。
われわれはこの時間、この一日の高潔でじょうずな過ごし方を教示してくれることができる人、物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を尊厳するようになる。
と言っています。
われわれが一日の仕事の後に飲む一杯のビールやワインやコーヒーなど、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間をもっともっと大切にしていきたいと思いますね。